私の本棚

July 21st, 2022

『私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。』という書き出しはあまりに有名だけど、私がこの世でいちばん好きな場所は本棚の前だと思う。何らかの考えに沿って整理整頓された本棚も好きだし、ランダムに本が突っ込まれているだけの本棚も好きだし、詰め込めるだけ詰め込んで探すのも取り出すのも一苦労みたいな本棚も好き。

二十代の間に国が変わる引っ越しを三回している。日本からシンガポールへ、シンガポールからアイルランドへ、アイルランドからフランスへ。引っ越し業者を使うことも荷物を郵便で送ることもなく、自分で全ての荷物と共に引っ越してきた。シンガポールへ引っ越すときは「他県に引っ越すみたいな気軽さで他国に引っ越しするね」と日本の友達に言われ、アイルランドへ引っ越すときは「もっとちゃんと準備しなよ」とシンガポールの友達に怒られるくらい私の引っ越しは適当だ。こんなに心配性で頭の中は常に不安でいっぱいなのに、他国への引っ越しはなぜか何とかなると思っているところがある。

どんな場所に住んでも、どんなに小さくても、自分の部屋には必ず本棚を作った。棚を置くスペースがなく机の上に並べるだけだったこともあるけれど、私には大切な本棚だった。自分が暮らす空間の中に日本語の本が並びいつでも目が合うことが、手を伸ばせば母語の世界にいつでも浸れることが、異国暮らしの寂しさを一瞬でも忘れさせてくれた。

シンガポールでもアイルランドでも、長く住まないことはわかっていたし、また自分一人でどこかへ引っ越していくのだからと荷物は増やせなくて、数冊の紙の本だけを大事に持っていた。吉本ばなな『キッチン』、川内有緒『パリでメシを食う。』、向田邦子『父の詫び状』は、私の全ての引っ越しについてきた本だ。フランスに引っ越してパリにアパートを買って私の長い仮暮らしが終わり、「ホーム」と呼べる場所が出来たとき、大きな本棚に好きなだけ本を並べられることが嬉しかった。

日本語に触れること、日本のごはんやお菓子を作ることで、私は遠い母国との繋がりを保とうとしている。料理、製菓の本を買うのはもはや趣味で、この棚だけは自分なりに順番を考えて並べていて、定期的に入れ替えたりもしている。書店員は私、お客さんも私。日本の本屋へ行ったときの心躍る感じを自宅で再現したいのだ。背伸びして買ったプロ向けの本もたくさんある。何か作れそうなのないかなと開いては、難しすぎると閉じてまた本棚に戻すのも、本屋で立ち読みしているみたいで楽しい。

ロンドンに留学していたとき、本屋に並ぶたくさんの本を見ながら、私はここにある本をこれから読めるようになるんだと嬉しく思った気持ちを今も覚えている。一緒に暮らしていたイギリスに長く住んでいるドイツ人のおばあちゃんの本棚には、英語ドイツ語フランス語で書かれた本が並んでいた。素晴らしい本に出会ってもドイツ語やフランス語だと友達に勧められないのが残念と嘆いていたけれど、気付けば私の本棚にも三つの言語で書かれた本が並び、同じことで嘆いている。

腰に手を当てて、手を後ろに組んで、本棚の前で考える。今日の晩御飯は何にしよう。一つも編み終えられないのになんでこんなに編み物の本があるんだ。Twitterばっかりやってないでもっと本を読むべき。一生自分のものにはならない言語と生きていくってどういうことなのか。日本人であるということ、日本で生まれ育った意味とは一体何なのか。自分の人生で何がやりたいんだろう。

私のための本棚。手を伸ばして私は本を読む。どんな国に住んでも、誰と住んでも、小さくても大きくても、これからもずっと本棚だけは私の側にいてほしい。

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