私がパリでエンジニアになるまで

June 27th, 2021

※この記事はWaffle Blogに寄稿したものがオリジナルです。

@wirohaさんが始めた一人の女性がエンジニアなるまでのストーリー、色んな女性がそれぞれの話を書いていて、どれも面白く、勇気づけられる女性は多いだろうと思うし、私も少しでも貢献できたらと思い書いてみます。

私は1988年生まれで今年33歳になる。エンジニアになるまでの道のりは全然真っ直ぐではなく、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、かなり遠回りしてきた。

小学校

インターネットにハマったのは小学校五年生くらい。スキーで転けて骨折して自由に出かけられず暇になった分、インターネットにハマり、ハマりすぎてものすごい請求額が来たりして(当時定額プランはなかったか主流ではなかった)、親にめちゃめちゃ怒られても懲りずにネットに入り浸っていた。

インターネットで知らない人とお喋りするのが楽しかった。メル友がたくさんいた。平和な時代だったので怖い思いをしたことはなく、郊外に住む平凡な小学校五年生がそんなに面白い話をできたとも思えないんだけど、知らない人と何でもないやりとりをして、本当にただそれだけなのに楽しかった。

同じ年代のネットにハマっていた多くの女子のように、「ふみコミュ」という情報交換サイトを毎日チェックして、みんなが作ったサイトをあちこち回っていた。私も自分のサイトを作ってみたかったけど上手く出来なくて、簡単にサイトが作れるサービスをお小遣いで契約し、初めて自分のサイトを作ったときの誇らしい気持ちを覚えている。

中学校

中学生になるとみんなが携帯(当時はもちろんガラケー)を持つようになり、「魔法のiらんど」という携帯でホームページを作れるサービスが人気になった。友達とホムペ(ホームページの略)を作り日記を書くことが流行っていて、そんなに難しいことは出来なかったけど、周りの友達よりは出来たので代わりにホムペを作ってあげたりしていた。

高校

高校生になる頃にはタイピングのスピードが周りの同級生よりも断然速くなっていたし、パソコンであれこれ作業するのにも慣れていたので、タイピングから習い始める情報の授業は最高につまらなくて、先生からは熱心に何かパソコンの資格を取るよう勧められたりした。

文理選択は、高校に入学してわりとすぐの頃だった。当時の私は数学が大好きで、満点を取って学年一位になったりしていて、ついでに化学と物理も好きだし成績も良かったので、理系に進んでも良いんじゃないかと思っていた。でも、理系に進んで自分が一体どんな仕事につけるのかがわからない。研究者になるくらいしかイメージが湧かなかった。当時のインターネットはそういうことを調べる場所ではなかったし、相談できるような信頼する大人も周りにいなかったので、私は研究者は違う気がすると一人で悶々と考えていた。理系も良いかもしれないと友達に言ったとき、「でも理系に行ったらクラスで女子一人になるよ」と言われ、女子一人になるのは絶対嫌だと思った。結局理系を選んだ先の人生が思い浮かばなくて、私は文章を読んだり書いたりするのが好きだったし、何かそういうことに関わるなら文系の方が良いだろうと思って、文系を選ぶことにした。大好きなインターネットに関わることが仕事になるなんて、その頃の私は全然知らなかった。

どうして理系を選ばなかったんだと数学の先生たちにはびっくりされた。先生たちが私は当然理系に進むと思っていると知らなかったので私もびっくりした。翌年、文系と理系に分かれてのクラス分けが発表されたとき、理系のクラスには四人くらいだけど女子がいて、「なんだ女子いるじゃん」と、なんだか寂しいような気持ちで思った記憶がある。

それでも私は文系に進んで、高校受験では第一志望に落ちていたので大学受験では絶対第一志望に受かりたくて、めちゃくちゃに勉強することにした。受験に数学は必要なかったので、大好きだった数学は早々に捨て、今までの人生で取ったこともないようなテストの点を取った。数学のテストの問題を見てここまで何もかもわからないと思ってのは初めてで、数学との距離が遠くなったことを悲しく思ったけれど、それでも第一志望の大学に受かることが何より大事だったから気にしないことにした。

郊外の狭い世界で生きてきて、周りの「普通」に自分を合わせることに必死だった私には、自分が本当に何をやりたいかなんて全然わからなかったし、これを絶対に勉強したいという強い気持ちがなかった。とりあえずお金を稼げるようになりたいという安易な理由で経済系の学部を第一志望にしたけれど、何を勉強するかよりも第一志望の大学に入ることが重要で、学べる内容は何でも良くて、結局第一志望の大学を五学部も受けて、その一つに合格することが出来た。

大学

大学は想像以上に楽しかった。初めてそのままの自分で受け入れてもらえる場所を見つけたと思った。大学で初めての青春を謳歌して自由でいることの楽しさを覚えた私は、どうしても就活という制度に興味が湧かなくて、早々と就活をしないことに決めた。決めたところで何をするのかわからなかったし、「社会はそんなに甘くない」「とりあえず就活やるだけやってみたら」と周りからは色々言われたけど、髪を黒に染め直し似合わないスーツを着て苦手なパンプスを履いてよくわからない質問に答えるなど、自分に出来ると思えなかった。就活しないのに大学に通い続ける意味がわからず、中退することも考えたけど、親から就活しなくても良いけど大学だけは卒業して欲しいと言われたので、大人しく大学は卒業することにした。

どうにか卒業後の仕事を見つけなきゃと、在学中あちこち興味のある場所に顔を出し続け、とある小さな会社にバイトとして拾ってもらい、正社員として雇ってもらえることになった。自分とは別世界に住んでいるようなすごい人たちに出会えて可愛がってもらうことが出来て、なんて恵まれているんだと思った。だけど長くは続かなかった。私は怒鳴り声を聞くことや、休日だろうと構わず電話が掛かってくることに耐えられず、初めての仕事で助けてほしいが言えなくて、ぺしゃんこに潰れて逃げ出した。ただ薬を飲んで家で寝るだけの生活をしながら、お世話になった人たちになんてひどいことをしたんだろう、私は社会不適合者だったんだな、人生終わったなとぼんやり考えていた。

それでもこれ以上授業を休むと大学を卒業出来ないかもしれない段階に来たので、恐る恐る大学に戻った。逃げ出した会社の人に会うかもしれないと思うと怖くて、外を歩くときはいつもびくびくしていた。

振り出しに戻って大学卒業後の予定がなくなった私は、留学することにした。まだ会社にいた頃、インターンの男の子と話していて、元々ずっとそこで働いているつもりもなかったので「ここを辞めたあとは何をしようかな」と言ったら、「留学すれば?」と言われて、その言葉が妙にピンと来て、そうだ留学しようと決めていたのだ。

どうしてピンと来たのかは今でもよくわからない。周りには海外留学をした友達もいたし、海外旅行が大好きな友達もいたけど、私は全然興味がなかった。日本に住んで、日本語と生きていくのが自分の人生だと思っていた。

でも振り返ってみると、英語が出来ないことは確実に私のコンプレックスだった。職場で一人だけ英語が話せない私に気を遣って海外のアーティストが名前を聞いてくれたのに、それすら上手く答えられなくて「ゆかって言ってください!」と先輩に日本語でお願いしてしまうようなレベルで英語が出来なかった。

目標が出来たので少し元気になってきて、不安や後ろめたさを英語の勉強で忘れようとしていた。美術が好きだったのでアメリカよりはイギリスの方が良さそうくらいのイメージでロンドンに行くことにし、卒業までの日々はバイトしながら英語の勉強を続けた。バイト先のお姉さんに、「ロンドンといえばイギリス英語じゃん、難しそう!」と言われて、イギリス英語とアメリカ英語の何が違うかさえ知らなかったので心配になったりしていた。

留学

三ヶ月のロンドン留学へ旅立つ日、空港のトイレで見た私の顔がびっくりするくらい強張っていて、大丈夫だよと思わず自分に話しかけてしまうレベルで緊張していた。機内で飲み物を頼んだとき、「iceいる?」のiceが氷のことだとわからずアイスクリームかと思ってしまい、こんなレベルで果たして大丈夫だろうかと不安になったことを覚えている。

初めての海外生活は思っていた以上に大変で、でも思っていた以上に楽しくて、泣いたり笑ったり忙しかった。大学で自分は自由になれたと思っていたけど、ロンドンで暮らしてみて、こっちの方がもっと自分らしくいられると思った。

それまでの私は人見知りで、優柔不断で、自分に自信がなくて、他人に話しかけるのが苦手で、地図も読めなくて、誰かに頼りっぱなし。それでもロンドンでは、頼れる人がいないから自分でどうにか頑張って解決しなきゃいけない。たった三ヶ月の留学でも、私は随分しっかりした人間になって、息がしやすくなって、帰ってきたときに地元の駐輪場の管理人さんに、「目の輝きが違う」とまで言われていた。

一生懸命頑張ったけど、三ヶ月では自分が目指していたレベルの英語にはならなかった。諦めきれなくて、親への借金を増やしてまた九ヶ月ロンドンへ留学させてもらうことになった。今度は大学、大学院進学を目指す人向けの、よりしっかり英語を学ぶことが出来る大学付属の語学学校を選んだ。

どんなに頑張っても英語が上達している実感が全然湧かなくて、スピーキングのクラスは本当に苦痛で、相変わらず英語は下手だし通じないことも多かった。もがいている間に九ヶ月はあっという間に終わって、もっと滞在していたかったけどこれ以上は借金出来ないので、絶対にいつか戻ってくると誓って日本に帰った。23歳、周りはみんな大企業に就職して順調にキャリアを積んでいく中、私はまだ無職で、実家で一日中本を読んでた。

とにかく早く海外に戻りたかったけど、何のキャリアもない自分が海外で働けないことはさすがにわかっていた。一番確実なのは寿司職人になることじゃないかと思ったけど興味が湧かなかったので、Web制作について勉強してみようと専門学校に通うことにした。手に職があれば海外でも仕事が見つかるんじゃないかと思ったのだ。バイトを掛け持ちしながら学校に通っていたら、母親が大きめの怪我をしてしばらく入院することになってしまい、代わりに家事を担当することになった。実家から東京へ行くには片道一時間くらい。バイトしながら学校に通ってみんなの夜ごはんを作るために実家へ帰るとなると時間があまり取れず、勉強に100%コミットしないまま学校を卒業した。

今考えると、あの頃の私は本当に中途半端だったなと思う。やり遂げようという覚悟がなかったから、勉強にも全然身が入っていなかった。そんな私なのでWeb制作会社に応募しても当然採用されなかったけど、妙にやる気だけはあったので、そのやる気でデザイン会社のGoodpatchに採用してもらうことが出来た。本当に熱意しかなかったのでよく拾ってもらえたなと思う。特に役職があって採用されたわけじゃなかったしスタートアップだったので何でもやって、社長アシスタントやったりブログ書いたりTwitterやFacebookの更新をやったりしていた。

会社にはそれなりに貢献できたと思うけど、しばらく経って私は本当にこのままで良いんだろうかと思うようになった。私の夢は海外で働くことだったのに、そこに自分が近づいているとも思えない。だからといって具体的に何をどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。

それでもとりあえず25歳は絶対に海外で働くと決意した。求人サイトを見ながら本格的に仕事探しを始め、昼休みも休日もひたすら仕事を探して応募し続けた。何度か面接にたどり着けたけど採用はもらえなくて、私には海外で働くなんて無理なのではといつも泣いていた。

そんな泣いてばかりの日々を続けること六ヶ月、Twitterのシンガポールオフィスで日本語サポートとして雇ってもらうことが出来た。Twitterは大好きなサービスだったので本当に嬉しかった。シンガポールに興味はなかったし知り合いもいなかったけれど、海外で働けるなら何でも良かったので、かなり軽い気持ちで引っ越していった。

海外就職

初めて完全に英語の職場だったので、英語が出来なさすぎてクビになるんじゃないかと毎日ビクビクしていた。最初はちょっとしたメールを書くのに必要以上に悩んでしまって無駄に残業したりもした。自分だけジョークが聴き取れないことなんて何度もあったけど、親切な同僚に助けられて少しずつ慣れて、楽しい思い出をたくさん作った。チームの同僚はシンガポール、韓国、インドネシア、ブラジル、ロシアと国籍がバラバラで、それぞれ色んな国に住んだことがあったので、ランチの時間に話すネタはいつも尽きなかった。

楽しい日々が続いていたけれど、私には留学から帰ってきたばかりの頃に出会った、日本でインターンしていたフランス人の彼氏がいて、ずっと遠距離恋愛をしていた。私の部署はアイルランドのダブリンにもあったので、パリにいる彼氏に少しでも近づけるよう異動できないかとお願いしたら最初は断られたけど、その後状況が変わって会社から異動してほしいとオファーをもらうことが出来て、私はアイルランドという知らない国へとまた一人で引っ越していった。

その後サポートの仕事をしながらスパム対策のチームをずっと手伝っていて、そっちに異動したいと前から希望していた。少し時間は掛かったけど面接を経て採用され、念願叶ってそのチームに参加できることになった。かなり変わった仕事だと思うけど、スパムを見つける才能があると周りからは褒められ、大好きなTwitterからスパムを排除するという仕事は本当に楽しかった。6人のチームで女性なのも英語がネイティブじゃないのも私だけ。自分だけ明らかに英語のレベルが違うので、会議で何か発言するのにはものすごく勇気が言った。マネージャーからはとにかく何でもいいから喋って自分の意見を言うよう何度も言われ、会議で何も喋らないことがないように頑張った。

ただその頃には彼氏との遠距離恋愛を続けて五年も経っていた。何よりダブリンという町があまり好きになれなかったので、そろそろここを離れて彼氏と一緒に暮らしたいと思うようになった。彼氏は住むなら東京かパリが良くて、私は日本に帰る気はなかったのでそれならパリだろうと、パリでの仕事を探し始めた。

大好きな仕事を辞めて引っ越すのだから、彼氏とただ一緒に住むためだけにパリへ引っ越したくはない。自分のキャリアにもプラスになることで引っ越したかった。なのに、びっくりするくらい仕事が見つからない。一年間ずっと仕事終わりと休日にひたすら仕事を探し続けて、二回最終面接まで行ったけど、結局採用はもらえなかった。自分の時間を無駄にしているとしか思えなくて、このままじゃだめだという気がしていたけど、どうしていいのかわからない。とりあえずワーキングホリデーを使ってパリに引っ越してみる?でもビザがあったら仕事が見つかるんだろうかと悩んでいた頃、シンガポール時代に一緒に働いていたロシア人の元同僚が、なんとダブリンのFacebookで働くことになり引っ越してきたのである。早速一緒に晩ご飯を食べてこの悩みを話していたら、彼女から「パリで何か学校に通うのはどう?」と言われる。その時はうーんと思ったけど、家に帰ってからそれがどんどん素晴らしいアイディアに思えてきた。せっかく何か新しく勉強するならプログラミングの学校に通うのはどうだろうか?そう思いついた瞬間の、明るい気持ちを今でも忘れられない。

そうだ私ずっとプログラミング勉強したかったじゃん。興味があったけど、自分には無理だと思って無視していた。数年前Macbookを買うときにAirじゃなくてProにしたのは、いつかプログラミングを勉強するときにそっちの方が良いかもとこっそり思ったからだった。エンジニアになればビザも取りやすいはず。こうやって前に進めない今だからこそ、ずっとやりたかったことをやるチャンスじゃん。

キャリアチェンジ

それで私は28歳の二月、大好きだった仕事を辞めてフルタイムで勉強することを決意した。仕事せずに一年は暮らしていけるくらいの貯金はあったけど、プログラミングの学校に通ってしばらく無職でいられるかは怪しかった。色々調べた結果、学校に通わず独学でもエンジニアになれると思えたので、自分でやってみることにした。四月に仕事を辞め、そこから一年弱、毎日一人で勉強する日々が始まった。本当に辛かったけど、Twitterやカンファレンス、エンジニアを目指す人のためのコミュニティなどで色んな人に助けてもらって、29歳になった翌年の一月、無事二つの会社からフロントエンドエンジニアとして採用をもらうことが出来た。もちろん泣くほど嬉しかった。

最初の仕事はモバイル広告関係の会社を選んだ。未経験のエンジニアにビザをスポンサーしてくれる会社なんて滅多にないのですごく感謝はしているけれど、色々めちゃくちゃ過ぎて苦労した。チームの同僚はインド人男性とモルドバ人女性、かなりインターナショナルな職場でそういう面では楽しくはあったけど、男性の同僚から「女性は数学的知能が男性に比べて劣っている、科学的にも証明されている」と発言されたり、「(私と私の同僚が)採用されたのは女性だからでは?」と堂々と言われたり、最低な思い出を色々作った。さらに私のマネージャーはマネージャーをやるのが初めてなのに何のトレーニングも受けておらず、同僚と一緒にあれこれフィードバックを繰り返してなんとか2年間頑張ったけど苦痛過ぎて、最後は結局大喧嘩して辞めることになった。

一番最初の仕事を得るのに比べたら、転職活動はかなり楽だった。一社落ちて、一社は自分から辞退して、一社から採用をもらってその会社で働くことにした。

今の会社には変わった人が多くて、パンデミックの前オフィスで働いていた頃は毎日ゲラゲラ笑っていた。フランス人の同僚は元ギャルでパラパラが異様に上手くてパラパラ大会にも出たことあるという(どういうこと??)。別のフランス人の同僚は、黄色が大好きでいつも黄色の服を着ていて、可愛いものが大好きなのでお互いに可愛いぬいぐるみを送り合ったり、一緒にPerfumeやBlackpinkのダンスをzoomで練習したりしている。

そんなこんなで、パリでエンジニアとして働き始めてもう三年になる。エンジニアの仕事は楽しい。同僚とああでもないこうでもないと議論しながら、一緒にプロダクトを作っていくのが好き。私は料理もお菓子パン作りも編み物も好きだけど、プログラミングも同じ感じで好きなのだ。何かを作るのが向いているなと思う。

私はかなり遠回りしてエンジニアになったけれど、どの経験だって無駄になってないし、それぞれの場所での経験は今の仕事でも超役立っている。エンジニアと聞くとコードを書くのが仕事だと思われがちだけど、ドキュメントを書いたり、こうしたらもっと良くなるのではとプロダクトやプロセスの改善を提案したり、チームのみんなが楽しく安心して働けるような環境を作るのもまた一人一人の仕事だと思う。みんながみんな大学でコンピューターサイエンスを勉強したエンジニアじゃなくても良い、こうやって真っ直ぐじゃないキャリアを歩んできた私だからこそ提供できる価値があると信じて、毎日異国で頑張っています。

それでも振り返ってみると、私がエンジニアを目指すチャンスはたくさんあって、ここまで遠回りする必要があったんだろうかと思う日もある。高校生のとき、サイトを作ることが仕事になると知っていたら、大学でコンピュータサイエンスを学べると知っていたら。本当はずっとやりたいと思っていたことを自分には無理だと勝手に諦めないで、もっと早くに覚悟を決めて本気で勉強していたら。

同じような感じでエンジニアになるチャンスはあったのに、諦めたり選択肢があることさえ気付かなかった女性はたくさんいたんじゃないかと思う。今だって状況がそんなに変わっているように思えない。私が高校生だった頃にもう少し状況が違っていたらと思ってしまうこともあるけど、過去のことはどうにもならないので、せめて次の世代の女性たちが自分の好きなことを諦めないで済むように、女性の自分には向いてないと思うことのないように、こういう選択肢もあるんだよと伝えられるように、女性エンジニアとして自分に出来ることを続けていきたいと思っています。

関連記事

英語 vs 私の4年間。 https://note.com/y_ukyk/n/nccbf230837c9

キャリアチェンジしてフロントエンドエンジニアとして採用されるまでの記録。 https://note.com/y_ukyk/n/n577cd5a78953

パリのセキュリティスタートアップSqreenに転職します! https://note.com/y_ukyk/n/n6edf335f73c0

© Copyright 2020-2021 Yuka Masuda